• Keine Ergebnisse gefunden

エッセイ02

Im Dokument 目次 (Seite 124-200)

カットバック、 アクションつなぎ等々の多様な技法を駆使したモンタージュが 生み出す映画の時間は、 ドラマを成立させるために遡行する現実の時間 を任意に切り刻み、 つなぎ直します。 それは基本的にフィクションの時間 だと思うのです。 無数のカットがつながれることで、 虚構の物語を成立させ る。 そんなモンタージュの技法は、 映画という虚構の世界を成立させるた めの重要な技法だと思うのです。 それに対してワンシーン・ワンカットの長廻 しは、 モンタージュほど時間を好き勝手に操作できない。 どちらかといえば 現実の時間や空間や場所に拘束されがちです。 それは映画をもっと演劇の 領域か、 現実の記録の領域に近づけてしまうのでしょうか。 

長廻しの時間はモンタージュ技法であらわされる時間と違って、 もっと現 実の生の時間の領域に近いと思います。 アンゲロプロスの『旅芸人の記録』

では、 十二分間のワンシーン・ワンカットで六年間の時間経過を強引にあ らわしていましたが、 カットのつなぎ合わせで表出されるモンタージュの時 間と違い、 その十二分間は現実の生の十二分間の時間感覚に近いので、 

何だか嘘っぽいけれどリアリティーがあるという、 虚構と現実が混濁するよ うなショットでした。 それはフィクションなのですが、 時間の流れ方が現実 の流れ方に近い。 カットを割らないでカメラを廻し続ける長廻しは、 例えば 三分間カメラを廻し続けたら、 三分間の現実の時間の流れがフィルムの中

124

ベータ・エクササイズ

に定着される。 そういう意味ではモンタージュが生み出す時間とは、 まった く真逆の現実の時間だと思うのです。 

モンタージュは時間の操作を可能にしますが、 廻し続けられたその三分 間の長廻しは現実に経過した三分間の生の現実の時間でして、 モンター ジュが生み出したフィクションの時間ではない。 長廻しはだからフィクショ ンとしての映画の中に、 生の現実の時間を導入することではないでしょう か。 フィクションとしての映画の時間に、 リアルな現実の時間を導入する ことで、 長廻しは映画のフィクションに対して亀裂を入れることなのではな いでしょうか。 モンタージュによって成立する映画のフィクションに対して、 

現実を導入することでフィクションの城壁の中で守られている映画に亀裂を 生じさせる。 映画を映画だけの世界に囲い込むのではなく、 映画を現実の 世界と地続きの関係に持ち込むのです。 映画の中に現実を、 現実の世界 に映画を浸透させていく渾然一体とした感覚を長廻しはあらわそうとします。 

現実のある一部を囲い込むカメラのフレームは、 囲い込んだ対象から現 実の時間を簒奪するでしょう。 対象から時間を奪い、 無時間的な存在に 転化させます。 そしてフレームによって切り取られ、 停止させられた対象が フィルムに定着されることで今度は、 映写機のモーターで停止させられた 対象が動き始める。 それが映画の時間の始まりなのですが、 そんな映画 の時間は基本的に静止した映像を映写機で動かすことで生み出された機 械の時間です。 映写機によって、 つなぎ合わされたカットが自動的に流れ 出す。 現実の時間が持つ不可逆性を根底から突き動かすのがモンタージ ュです。 現実の時間の流れに逆らって、 それはカメラによって切り取られ た現実を、 好き勝手に貼付け、 再構成し直すのです。 写真が時間を凍結 することで、 時間を過去に戻ることが可能な、 逆行可能の時間に転化しま す。 モンタージュは時間を自由に組み替え、 すべての映像が今-現在にあ らわれたかのような虚構の現前性を強調します。 それらの技法を駆使する ことで、 二十四分の一という自動化された単調な機械の時間が、 スペクタ クルな時間に変貌するのです。 

さんでつ

けれど映画にそんなスペクタクルな現前性が必要なのでしょうか。 少し 極端な例ですが、 例えばウォーホルの映画は何も起こりません。 眠ってい る男やエンパイア・ステート・ビルディングをカメラが据え置きのまま写して いるだけです。 現実の時間がただ経過していくだけの映画です。 それは何 だかベルトコンベアーをずうっと眺めている、 流れ作業に従事している工 員のような気分になります。 映画の時間はそんなベルトコンベアーに代表さ れるような、 インダストリアルで退屈なものなのでしょうか。 ウォーホルの映 画を“退屈の監視人”だと佐々木敦が書いていましたが、 映写機という機械 が正常に動いていることを監視する。 そんなインダストリアルで単調な退屈 こそが映画の本質なのかもしれません。 映写機という大きな機械が中央に 鎮座している映写室を中心にして成立する映画館の空間は、 人間ではな く機械が中心であり、 機械が写し出す映像を真剣にみんなが見ている姿 は、 機械に支配された空間であり、 それは何だかフォード式の工場で働い ている機械に牛耳られた工員の姿とよく似ているような気がします。 

ウォーホルも長廻しを多用する映像作家ですが、 彼の長廻しもまた、 

映画の虚構に対して生の現実を映画の中に導入することだったと思うので す。 そして生の現実というのはつねに退屈なのですが、 自動化された機 械の時間が前提となって成立する映画もまた、 基本的には退屈なメディア だと思うのです。 高度に機械化された工場での人間のやる仕事といえば、 

その機械の動きを見張っているだけです。 そんなフォード式工場の持つ固 有の退屈さを映画もまた内包している。 それは人間が機械に従わざるを 得ない悪夢のような退屈さです。 その退屈さに耐えきれなくなったときにモ ンタージュ等々の技法を使って映像をスペクタクル化するのだと思います が、 ときにはその悪夢のような退屈さに取り憑かれた映像作家もいるので す。 ウォーホルもその内の一人なのでしょうが、 アジェも同じ場所を飽きるこ となく、 何度も死ぬまで撮り続けていました(ベレニス・アボットもできること なら、 死ぬまでニューヨークを撮りたかったと言っていました。 写真家とい うのは単調な繰り返しを好む人が多いのでしょうか)。 

126

ベータ・エクササイズ

彼らは退屈な反復に取り憑かれたのでしょうか。 機械の単調な反復が快 感だと最初に提示したのがクラフトワークだと思うのですが、 リズムボックス という機械に人間が合わせていくことで、 人間が機械化する快感だけでは なく、 それは人間と機械の領域が地続きになってしまう面白さに取り憑かれ たのではないでしょうか。 人間が機械に対して主ではないし、 かといって 疎外論のように人間が機械の従になるわけでもない。 機械と人間の境界が 曖昧になるのです。 それは現実の世界と映画の境界が曖昧になっていくよ うな感覚と似ているのではないでしょうか。 機械と人間、 虚構と現実の境 界が曖昧になっていくとき、 その場に居合わせた作家的主体もまた自己の アイデンティティーをそこで維持し続けるのは難しいでしょう。 虚構なのか 現実なのか判断不可能なメディアに対して、 主体の位置を確保するのは困 難なことだと思うのです。 現にクラフトワークはステージの上では、 シンセ サイザーのスイッチを押す以外に能動的なことは何もしていなかった。 そん な風に作家的主体があやふやになって消滅しようとする瞬間に現われるの が、 カメラの記録機能なのだと思います。 『眠る男』はカメラの記録機能に 徹底的に依存した映画です。 むしろ記録機能しかない映画とでも呼ぶべき 映画だと思います。 

写真撮影もそうですが、 撮影を続けていると自分が撮っているという意 識が怪しくなる。 撮影において自分がイニシァティヴを握っているという感 覚がだんだん崩壊していきます。 自分が撮っているのか、 機械が撮ってい るのか、 または風景に撮らされているのか。 現実を見ているのか、 ファイ ンダーに写ったものを見ているのか、 そんな境界が曖昧になり易い。 ある 意味では、 世界は最初から映像化されているのかと思うときもあります。 映 像と現実の関係が逆転してくる。 現実があるからその現実を写真に撮るの

写真撮影もそうですが、 撮影を続けていると自分が撮っているという意 識が怪しくなる。 撮影において自分がイニシァティヴを握っているという感 覚がだんだん崩壊していきます。 自分が撮っているのか、 機械が撮ってい るのか、 または風景に撮らされているのか。 現実を見ているのか、 ファイ ンダーに写ったものを見ているのか、 そんな境界が曖昧になり易い。 ある 意味では、 世界は最初から映像化されているのかと思うときもあります。 映 像と現実の関係が逆転してくる。 現実があるからその現実を写真に撮るの

Im Dokument 目次 (Seite 124-200)